言葉の力歳月記

話題の言葉、心に残る言葉・名言・名句・名台詞・俳句・短歌・詩、新語などを季節とともに学びながらお知らせしています。

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「悪いこと起きても全部感謝しよう」と俳優の船越英一郎

俳優の船越英一郎(57)が24日、都内で行われたテレビ東京ドラマ特別企画『テミスの剣』(27日放送 後9:00)の制作発表会見に出席し、記者から「自分の信念は?」と質問を受けると「悪いこと起きても全部感謝しよう」とほほ笑みながら語った。

 


 「世の中にはいろんなことが起きます。すてきなこともあれば、とんでもない悪いこともある。自分が想像しないような事態が起きます」。そう切り出した船越は「悪いことが起きても全部感謝しようと。いろんなことが起きて、それを乗り越えると、その前よりすてきな自分がいて、強くなる自分がいる。悪いこと起きても全部感謝しよう。

ひどいことを言われても、言った人に感謝しよう。悪くても感謝という言葉を隣に携えている」と語った。

 

『「悪いこと起きても全部感謝しよう」とほほ笑みながら話した』。

今ある自分ともっと良くなる自分に感謝、素晴らしい。

 

普通ならば悪いことが起ると「どうしてこんなことになるのか、自分はなんて不幸なんだろう」と悲しみに暮れるものである。

 

そして心が折れてしまうものである。やけ酒を飲みたい心境である。

 

それを感謝するというのだから素晴らしい。降りかかる不幸さえもプラスに考えて生きていこうとする俳優の船越英一郎は偉いね。

 

役者としての肥やしにしてしまうところに船越英一郎の人間的深みが感じ取られる。

なかなかできることではない。かくありたいものである。

 

更に「ほほ笑みながら」というところに注目したい。俳優タレントは自分に都合の悪い話になると、表情をこわばらせたり、避けたりするのもだがアルカイックスマイルとは恐れ入った。

 

船越英一郎は凛として美しい。

 

船越英一郎
船越 英一郎(ふなこし えいいちろう、1960年7月21日 - )は、日本の俳優、タレント、司会者。本名、船越 栄一郎(読み同じ)。ホリプロ所属。
神奈川県足柄下郡湯河原町出身。日本大学三島高等学校日本大学藝術学部映画学科卒業(同級生に真田広之がいる)。

 

身長 181 cm
血液型 B型

 

父は俳優の船越英二、母は長谷川裕見子。大叔父は長谷川一夫(後妻・飯島繁が英一郎の祖母・飯島まつの妹)。伯父は三島謙(本名:船越栄太郎)。妻は女優の松居一代。母方の曾祖父は鉄道工事で一時名を成した飯島組創業者の飯島次郎。妹は平野洋子。

趣味はアニメビデオの収集や漫画。

 

2時間ドラマへの出演が顕著で、在京民放5局の2時間ドラマ全てに主演作品がある唯一の俳優と言われる。その出演回数の多さから「2時間ドラマの帝王」や「サスペンスドラマの帝王」[2]、「ミスター2時間ドラマ」などの異名を持つ。

●略歴
1982年に石井ふく子プロデュース『父の恋人』でデビュー。
1997年に、芸名を船越英一郎に改名。
2001年に松居一代と結婚。船越は初婚だったが、松居は再婚で連れ子もいた。
2006年、毎年11月22日の「いい夫婦の日」にちなんで贈られる『パートナー・オブ・ザ・イヤー』を松居と共に受賞した。

●主な作品
テレビドラマ
『火災調査官・紅蓮次郎』(2時間ドラマ初主演作)
『狩矢警部シリーズ』
『その男、副署長』
●CM
三菱東京UFJ銀行(2006年 - 2007年)
千葉銀行
麒麟麦酒白麒麟」(2007年)
TOTO 「ネオレストハイブリッド」(ウォシュレット一体型便器)(2009年)
八幡物産北の国からのブルーベリー」
アデランス (2015年 - )

「今日の自分が一番好きといえる自分でありたい」。山本 富士子

2017年9月23日は秋分の日で彼岸の中日です。

秋分の日には彼岸花が田の畦道に沢山咲いています。

彼岸花といえば小津安二郎監督による映画「彼岸花」が思い起こされる。

彼岸花』(ひがんばな)は、小津安二郎監督による1958年(昭和33年)製作・公開の日本映画で小津の監督作品としては初のカラー映画です。松竹大船撮影所製作、松竹配給、日本では同年9月7日に公開された。

彼岸花』では山本富士子ブルーリボン賞主演女優賞を受賞している。

 

先日、山本富士子が「徹子の部屋」〔2017年7月21日放送〕に銀幕のスターとして出演していた。

 


徹子の部屋 2017年7月21日 【山本富士子】

 対談の中で彼岸花が咲くころになると山本富士子の所に彼岸花がいつも届けられているという。

小津安二郎監督の遺言だと思われるが、義理の妹「小津はま」さんが毎年贈っていたという。

「小津はま」さんが亡くなった後は娘さんの小津あつこさんが引き継いで現在でも毎年贈っているという。

1958年(昭和33年)当時は女優は他社への出演は固く禁じられていた。

小津安二郎監督が山本富士子を強く希望したらしい。山本富士子は以前から出演を希望していたので会社も許可したとのことであった。

この時小津安二郎監督は山本富士子を非常に気に入った様子だった。

当時撮影は徹夜などは日常茶飯事であったが特別出演ということもあり、撮影は毎日五時で終了という異例の待遇で在ったとか。

小津安二郎監督はその時の感謝の意をこめて山本富士子彼岸花を送ったと思われる。

彼岸花花言葉には「・独立 ・情熱 ・再会 ・あきらめ・悲しい思い出 ・想うはあなた一人・また会う日を楽しみに」というのがある。

小津安二郎監督は「想うはあなた一人やまた会う日を楽しみに」という意味を込めて贈ったのではなかろうか。


 話の中で山本富士子は好きな言葉があるという。

 

「今日の自分が一番好きといえる自分でありたい」。

 

前向きで常に前進していこうという山本富士子の姿勢がうかがえるいい言葉である。

 

山本富士子が現在気を付けていることは食事と運動する事で、家にいる時でも部屋中を歩き回っているらしい。

食事は健康の為、栄養バランスを考えながらほとんど自分で作るとのこと。

昭和33年の匂い立つような美しさはないものの、年相応の美しさは健在であった。

 

★山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は日本の女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159cm。

1931年(昭和6年)、大阪市西区立売堀(いたちぼり)生まれ。
少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。
大阪府立大津高女(現・大阪府泉大津高等学校)から京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)に転入し、1949年(昭和24年)卒業。
1950年(昭和25年)、読売新聞社中部日本新聞社西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。

ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。銅ねん映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。1954年に『金色夜叉』、1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍した。

1962年、作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。1968年、長男を出産。現在は孫もいる。

2011年11月21日、夫・丈晴のお別れの会が東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれ、喪主を務めた。

血液型 AB型
職業 女優
ジャンル 映画・テレビドラマ・演劇
活動期間 1953年 -
主な作品
映画
『夜の河』/『彼岸花』/『暗夜行路』
黒い十人の女』/『私は二歳』
雪之丞変化

テレビドラマ
『明治の女』/『大文字はもう秋』

主な受章・受賞歴[編集]
1956年(昭和31年) - 映画『夜の河』
NHK 主演女優賞
1958年(昭和33年) - 映画『白鷺』、『彼岸花
第9回ブルーリボン賞 主演女優賞
1960年(昭和35年) - 映画『女経』、『濹東綺譚』
第34回キネマ旬報賞 主演女優賞
1996年(平成8年) - 第6回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー
2001年(平成13年) - 紫綬褒章
2000年・2002年(平成12・14年) 燦々ぬまづ大使(観光大使 2度受賞) 

 


山本富士子 - 来歴・人物

★「彼岸花
彼岸花』(ひがんばな)は、小津安二郎監督による1958年製作・公開の日本映画である。小津の監督作品としては初のカラー映画。松竹大船撮影所製作、松竹配給。日本では同年9月7日に公開された。
上映時間は118分。

彼岸花は里見惇の原作を小津安二郎野田高梧の名脚本コンビが脚色した名作である。
ストーリーは結婚期にある三人の娘と、容易に意見の合わないそれぞれの家庭の親とを描いた映画となっている。女優陣は山本富士子を初め有馬稲子久我美子達が美しい。

 


●配役
平山渉:佐分利信
平山清子:田中絹代
平山節子:有馬稲子
三上文子:久我美子
谷口正彦佐田啓二
近藤庄太郎:高橋貞二
平山久子:桑野みゆき
三上周吉:笠智衆
佐々木初:浪花千栄子
長沼一郎:渡辺文雄
河合利彦:中村伸郎
堀江平之助:北竜二
料亭「若松」の女将:高橋とよ
女給・アケミ:桜むつ子
派出婦・富沢:長岡輝子
曽我良造:十朱久雄
列車給仕:須賀不二男
同窓生・菅井:菅原通済
同窓生・中西:江川宇礼雄
林:竹田法一
同窓生:小林十九二
河合伴子(花嫁):清川晶子
バーテン:末永功
佐々木幸子:山本富士子大映
●スタッフ
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧小津安二郎
原作:里見弴
製作:山内静夫
撮影:厚田雄春
美術:浜田辰雄
編集:浜村義康
録音:妹尾芳三郎
照明:青松明
色彩技術:老川元薫
監督助手:山本浩三
撮影助手:川又昂
音楽:斎藤高順

◆受賞
キネマ旬報ベストテン第3位
ブルーリボン賞主演女優賞(山本富士子
文部省芸術祭芸術祭賞

★2017年【 秋彼岸 】 
9月20日(水):彼岸入り
9月23日(土):彼岸の中日(=秋分の日。祝日)
9月26日(火):彼岸明け

秋分(しゅうぶん)とは
9月23日頃(2017年は9月23日)。および寒露までの期間。太陽黄径180度。白露から数えて15日目頃。
地球の赤道を延長した天の赤道と太陽の通り道の黄道がちょうど交差したところが黄径0度。
秋分とは、太陽が黄径180度(秋分点)を通過するときのこと。春分と同じく、太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになります。
極楽浄土があるという真西に太陽が沈むことから、亡くなった人をしのぶ日とされています。
春分秋分の3日前から7日間をそれぞれ春の彼岸、秋の彼岸とします。
春分秋分は「彼岸の中日」といいます。彼岸は日本独自の行事です。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言われ、この日を境に寒さが増してきます。


◆七十二候
秋分の期間の七十二候は以下の通り。
初候
雷乃収声(らい すなわち こえを おさむ):雷が鳴り響かなくなる(日本・中国)
次候
蟄虫坏戸(ちっちゅう こを はいす):虫が土中に掘った穴をふさぐ(日本・中国)
末候
水始涸(みず はじめて かる):田畑の水を干し始める(日本・中国)

 

◆前後の節気
白露 → 秋分寒露

 

 

「昨日の自分を今日の自分が超える」平野早矢香

「昨日の自分を今日の自分が超える」平野早矢香

戦うアスリートらしい名言です。

 

★平野 早矢香(ひらの さやか、HIRANO Sayaka1985年3月24日 - )は、栃木県鹿沼市出身の日本の元女子卓球選手、コーチ。
『 卓球の鬼 』と呼ばれた。
身長157センチで体重53キロ

18歳のときには全日本卓球選手権大会で初優勝(女子シングルス)翌年も連覇、実になんと、5度も優勝。
2012年ロンドンオリンピック卓球競技・女子団体銀メダリスト。
2016年4月9日をもって現役を引退し、引退後は卓球解説者も務めている。また2016年12月からは以前から契約していたスティガおよび所属であったミキハウスとコーチ契約を結んでおり、ノースプロダクションとマネージメント契約を結んでいる。

幼稚園の年長時に両親が共に高校から卓球をしており、自分もその影響で5歳で卓球を始めた。小学校時代は華卓会(- 小4)・城山クラブ(小5 -)で卓球を学ぶ。中学・高校時代は、仙台育英学園秀光中学校・仙台育英学園高等学校に在学。中学時代から技術面以上に精神面の強さがあったとされている。
高校卒業後はミキハウス(大阪)に入社。早々にシニア代表入りし、日本の期待の若手として注目される。18歳の若さで2003年度の全日本卓球選手権を初制覇[3]。この時はかなりの接戦や逆転を経てのものであったが、翌年も連覇した。内容も圧勝が多く、その実力が確かなものであることを証明した。

 

◆主な受賞歴
2003年 第5回 『卓球王国大賞』審査委員賞
2004年 第5回 『日本卓球人賞』選手大賞
2004年 第6回 『卓球王国大賞』プレーヤー・オブ・ザ・イヤー
2006年 第8回 『卓球王国大賞』荻村伊智朗賞
2007年 第9回 『卓球王国大賞』プレーヤー・オブ・ザ・イヤー
2008年 栃木県鹿沼市民栄誉賞
2008年 第13回 『読売栃木スポーツ大賞』大賞
2008年 第9回 『日本卓球人賞』選手大賞
2009年 第10回 『卓球王国大賞』プレーヤー・オブ・ザ・イヤー
2011年 2010年度JOCスポーツ賞特別功労賞
2012年 栃木県スポーツ功労賞
2012年 栃木県鹿沼市特別賞
2012年 宮城県特別表彰
2012年 宮城県仙台市より「賛辞の楯(たて)」贈呈
2016年 万年筆ベスト コーディネイト賞2016

最高世界ランク 10位
利き腕 右
グリップ シェークハンド
ラケット ローズウッド NCT
フォア面ラバー ヴェガ プロ
バック面ラバー ヴェガ プロ
シューズ WAVE DRIVE A3
戦型 右シェーク裏裏ドライブ型
所属歴 ノースプロダクション/ミキハウス
学歴 仙台育英学園高等学校
国内戦歴
全日本選手権 シングルス 2003,2004,2006~2008
全日本選手権 女子ダブルス 2008,2013,2014
ジャパントップ12 2004,2007,2008,2015
代表歴  日本代表

 
◆獲得メダル
オリンピック
銀 2012 ロンドン 女子団体
世界卓球選手権
銅 2004 ドーハ 女子団体
銅 2006 ブレーメン 女子団体
銅 2008 広州 女子団体
銅 2010 モスクワ 女子団体
銀 2014 東京 女子団体
アジア選手権
銅 2003 バンコク 女子団体
銅 2007 揚州 女子団体
銅 2012 マカオ 女子団体
銀 2013 釜山 混合ダブルス
銅 2013 釜山 女子団体
アジア競技大会卓球競技
銀 2014 仁川 女子団体

 

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卓球の鬼と呼ばれて

その思考方法には「 生きていくための勇気 」「 強くなるためのヒント 」が詰め込まれている。
卓球の神様に愛されたメダリストが発するメッセージ。
アスリートが感じた悩み、喜び、迷い、達成感、すべてが詰め込まれた一冊。

勝つことも負けることも、卓球が私に教えてくれた!
壁を乗り越え、不調を克服する方法
「卓球の鬼」と呼ばれて、平野早矢香自身はどう感じていたのか?

勝負の世界に運不運、不思議はなく、必然があるのみである。

読売新聞日曜版の「よみほっと 名言巡礼」に下記の言葉が掲載されていた。

剣術指南本質を突く

 

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。

 

松浦静山」の言葉といわれている。

 

後に野村克也が「負けに不思議の負けなし」という本を出した。

 

「勝負に運はつきもので運で勝つことはあっても、負ける時には何か原因・理由があるのもである」。という意味らしい。

 

しかしスポーツやその他の勝負の世界を見聞きしてみると、どうもそうではなさそうである。

 

私の経験からしてみると、

「勝負の世界に運不運、不思議はなく、必然があるのみである」。

 

ならばスーパープレイ、奇跡の勝利、代打逆転満塁ホームランなどはいかに。

スーパープレイ、奇跡の勝利、代打逆転満塁ホームランなどは生まれねべくして生まれている。

代打というのは、監督の意思決定であり、打者は勝とうとして打った結果である。

今までの練習の成果であり、必然的結果に他ならない。

勝ちには勝ちの原因と理由があり、負けには負けの原因と理由がある。

勝負の後にそれらの原因と理由をよく研究して次の勝負に生かす。

これが勝負の世界における進歩というものである。

負の部分の反省はもちろん大切なことではあるが、どうすれば勝つかという答えは「勝った原因と結果を科学的に研究する」方法の中にも存在するのである。

したがって勝負の世界に運不運などという不確かなものに頼っていては勝てない。

負けるときはもちろんのこと勝った時にも、原因理由が存在するのである。

運不運を論じるのは観客であって、真剣勝負の当事者は運不運を論じるのは愚の骨頂である。

真剣勝負の当事者はすべて実力、原因と理由で処理しなければならない。

ましてや真剣勝負ならば生死の戦いである。

したがって

勝負の世界に運不運、不思議はなく、必然があるのみである。

 

松浦静山【まつうらせいざん】

江戸後期の肥前平戸藩主。江戸生。名は清、別号に雲州・流水・感恩斎等。徳川家治に謁し、従五位下壱岐守に任ぜられ、その翌年平戸藩主を嗣ぐ。藩財政の再建に専念する一方学問・武芸の普及をはかった。藩校維新館を創設、感恩斎(江戸)・楽歳堂(平戸)の開設に続き
1760‐1841(宝暦10‐天保12)
江戸後期の大名。肥前平戸藩代の藩主。江戸藩邸に生まれた。幼名英三郎のち清(きよし),静山は号。8代藩主誠信(さねのぶ)の三男政信の子であったが,1771年(明和8)父卒するや,祖父の世子となり,75年(安永4)2月,祖父の致仕に伴って襲封し,6万1700石を領した。あたかも藩は慢性化した財政難にあったため,ただちに人事の刷新を断行し,藩政執行部を一新し,緊縮経済を確立し,財政収入の確保と計画的な処理を徹底するため,具体的な計画を立て,実行に移して,大きな成果をあげた。 絹熙斎を開く。林述斎の奨めにより甲子の夜に起草し、『甲子夜話』正続各百巻、第三篇七八巻を著わす。天保12年(1841)歿、82才。


野村克也 のむら-かつや
1935- 昭和後期-平成時代のプロ野球選手,監督。
昭和10年6月29日生まれ。昭和29年テスト生で南海に入団。40年戦後初の三冠王。45-52年監督も兼務。ロッテ,西武にうつり,捕手として世界記録の3017試合出場。実働26年,本塁打王9回,打点王7回,首位打者1回。通算2901安打,2割7分7厘,657本塁打,1988打点。平成元年野球殿堂入り。2-10年ヤクルト監督(優勝4回,うち日本一3回)。11年阪神監督。社会人のシダックス監督をへて,18年楽天監督。21年監督勝利1500を達成する。京都府出身。峰山高卒。

「ドラマは俺たちが作るんだ!」仙台育英・佐々木順一朗監督 仙台育英が大阪桐蔭の春夏連覇の夢を打ち砕く

 
仙台育英が2年ぶり8強、大阪桐蔭春夏連覇ならず 高校野球
第99回全国高校野球選手権大会第11日3回戦   仙台育英2―1大阪桐蔭 ( 2017年8月19日    甲子園 )

仙台育英大阪桐蔭 高校野球>9回、馬目は左中間に逆転サヨナラ二塁打を放ち大阪桐蔭春夏連覇の夢を打ち砕く
 「ドラマは俺たちが作るんだ!最高の舞台じゃないか!」。9回裏、仙台育英・佐々木順一朗監督はそう言って打席に向かう選手を送り出した。
 
「私も、選手も9割負けると諦めていました。でも10割諦めてはいませんでした。」
仙台育英・佐々木順一朗監督
 
 2死走者なし。「9割くらい諦めていた」という指揮官だが、ドラマはここから始まった。5番・杉山が中前打で出塁し、さらに二盗に成功。6番・渡部が四球を選び、一、二塁。途中出場の7番・若山の打球は力のない遊ゴロ。
試合終了と思った瞬間、三塁側アルプススタンドはため息から歓声に変わった。一塁手がベースを踏み損ない、若山はセーフ。満塁となった。

九回2死一、二塁。仙台育英の若山は、遊ゴロで万事休したと思われたところがセーフになって命拾い。「何が何だか分からなかったけど、あとにつなげました」。
甲子園でもバウンドが変わる安打などがあり、普段からラッキーボーイと呼ばれている背番号15。ゴミが落ちていれば、「運拾い」といって拾うのがチームの取り組みだ。この朝もお菓子のゴミを拾った。「きっとそのおかげです」と笑顔が絶えなかった。
 流れは大きく変わった。続く途中出場の馬目の打球は中堅手の頭を越えた。歓喜仙台育英、泣き崩れる大阪桐蔭
 
「皆が2死走者なしから回してくれた打席だったので、何とかしようと思って打席に入った。ここで自分が最後になるかっていう場面だったので自分で決めてやろうという強い気持ちで入りました」と馬目。若山の遊ゴロで「正直言うと、本当にもう終わってしまった、と」思ったと打ち明けたが、「歓声がワーッとなって、まだ続いているんだなって思って。強く、自分が決めてやろうと思った」。
 
 
試合を決めたのは仙台育英の背番号16、途中出場の馬目(まのめ)だった。1点を追う九回2死満塁。「最後になるか、サヨナラか。自分が決めてやろうと思った」。中堅手の頭上を越える逆転の2点二塁打を放った。控え組は主力より実戦的な打撃練習の数が限られるというが、「その中で、ひと振りで仕留める練習をしてきた」と誇らしげだった。
 
ほんの数分前までの双方の立場が逆転したシーンとなった。
 
 「夢みたい。うれしいを通り越している」。1995年から途中休養もありながら約20年チームを率いている、普段は冷静な佐々木監督も興奮気味。「本気になれば世界が変わる」と常々選手に言い続けてきた言葉が現実となった。
 
 「最後のシーンは観客の一人として見てました。9回表が終わり、ドラマは俺たちが作るんだ、と言ってたじゃないかと円陣で話し、馬目には必ずお前に回ってくると。それにしても頼もしい選手です」

 「今年は強くない」と言い続ける佐々木監督だが、甲子園で勝つには実力とともに目に見えない“何か”が必要。
 
過去2回、夏の大優勝旗に手が届かなかった仙台育英だが、今年のチームはその“何か”を持っている。
 
第99回全国高校野球選手権大会第11日は19日、甲子園球場で3回戦の残り4試合が行われ、仙台育英(宮城)盛岡大付(岩手)広陵(広島)花咲徳栄(埼玉)が勝ってベスト8が出そろった。

試合後の仙台育英・佐々木順一朗監督(57)とのインタビュー。
 
 ・馬目(サヨナラ2塁打)には
 「必ずおまえに回ってくるから。『ドラマはおれたちで作るんだとずっといってきただろ、最高のシチュエ  ーションじゃないか』と円陣で話した」
 ・選手たちはあきらめてなかった
 「9割ぐらいはあきらめていたんじゃないか。10割はあきらめていないということ。まだ何かあると。
  馬目がヒーローになってくれたことがうれしくて仕方がない」
 ・なかなか点を取れず
 「ロースコアを期待していた。何となると思っていた。理想的な展開だった」
 ・勝てた要因は
 「九回、守備から帰ってきたとき、これ以上ないぐらいの笑顔だった。頼もしかった」
 
『甲子園には魔物が住んでいる、野球はツーアウトから、勝負は下駄をはくまでわからない』。等といった諺がホントになってしまった一戦だった。
 
◆8月19日の試合結果
 仙台育英は2―1で、史上初となる2度目の春夏連覇を狙った大阪桐蔭に逆転サヨナラ勝ちした。1点を追う九回2死満塁から、馬目が左中間へ決勝打を放ち、2年ぶりの8強入り。
 
 広陵は6―4で聖光学院(福島)に逆転勝ちした。九回に中村の今大会4本目となる左越え2ランで決勝点を奪い、10年ぶりのベスト8。
 
 盛岡大付は延長十回、12―7で済美(愛媛)を破り、初の8強。十回、植田の2打席連続本塁打などで5点を奪い、2本の満塁本塁打を含む5アーチが飛び交った乱打戦を制した。
 
 花咲徳栄は10―4で前橋育英(群馬)を下して2年ぶりの準々決勝進出を果たした。埼玉勢は春夏通算110勝。
 
◆8月20日(日)の試合組み合わせ
準々決勝4試合。
公立の三本松と東海大菅生は初の8強。3回戦でともに延長勝ちの天理と明豊。初優勝を目指す東北勢は仙台育英広陵盛岡大付花咲徳栄と対戦します。
準々決勝 8:00開始予定
三本松(香川)-東海大菅生西東京
準々決勝10:30開始予定
天理(奈良)-明豊(大分)
準々決勝13:00開始予定
広陵(広島)-仙台育英(宮城)
準々決勝15:30開始予定
盛岡大付(岩手)-花咲徳栄(埼玉)

 ★仙台育英学園高等学校(せんだいいくえいがくえんこうとうがっこう)は、宮城県仙台市多賀城市に立地する私立高等学校。略称は仙台育英(せんだいいくえい)。
設置者は学校法人仙台育英学園。同法人は、東北地方では初の中等教育学校である秀光中等教育学校を設置している。
東日本大震災の影響
2011年3月11日の東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城野校舎は、2012年1月から改修工事が進められ、2013年3月24日に竣工した。同年4月9日には開校式が挙行され、授業が開始した。宮城野新校舎として完成したのは新『栄光』、新『南冥』、新『北辰』の3つの建物。新『栄光』と新『南冥』との間には、学園創立者である加藤利吉を記念した『GP(Great Principal)ホール』も建設された。
多賀城校舎グラウンド整備
2013年3月多賀城キャンパスのグラウンド(野球場『真勝園』、多目的グラウンド(サッカー場)、テニスコート)が人工芝に整備された。
■甲子園成績 3回の準優勝
1989年(平成元年) - 硬式野球部夏の甲子園大会(全国高等学校野球選手権大会)にて、準優勝。
2001年(平成13年) - 硬式野球部が春の選抜甲子園大会(選抜高等学校野球大会)にて、準優勝。
2015年(平成27年) - 硬式野球部夏の甲子園大会(全国高等学校野球選手権大会)にて、準優勝。
明治神宮大会
2011年(平成23年) - 硬式野球部が優勝
2014年(平成27年) - 硬式野球部が優勝
 
★佐々木 順一朗(ささき じゅんいちろう、1959年11月10日 - )は、宮城県出身の高校野球指導者。
モットーは「本気になれば世界が変わる」
監督・コーチ歴
仙台育英学園高等学校
 

「今日の自分が一番好きといえる自分でありたい」。山本富士子

 
2017年7月21日「徹子の部屋」がテレビ朝日より放送された。
タイトルは 特別企画 銀幕のスター ゲストは山本富士子であった。
 
◆印象に残ったインタビューピックアップ

「美しさを保つ秘訣は?」と尋ねられた時に山本富士子は「食事と運動と心の持ちよう」と答えた。
 
口に入る料理は大体自分で料理する。見た目も美しくバランスの取れた料理を心掛けているという。

運動はストレッチと速足歩きを自宅の部屋で毎日行うらしい。
 
座右の銘は「今日の自分が一番好きといえる自分でありたい」。
 
夫であった山本丈晴とは生まれ変わっても又夫婦になりたいと語る。
 
彼岸花に出演した後毎年小津監督から季節になると彼岸花が送られ、それは今現在もなお親族の方から送られているという。

徹子の部屋 山本富士子 動画 2017年7月21日
 2017/07/21
徹子の部屋 山本富士子
2017年7月21日放送
【番組内容】
~輝く“美"の秘密?手作り料理と健康法~山本富士子さんが今日のゲストです。   
 
★山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は日本の女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159cm。
生年月日 1931年12月11日
出生地 日本 大阪府大阪市西区立売堀
国籍 日本
身長 159cm
血液型 AB型
職業 女優
ジャンル 映画・テレビドラマ・演劇
活動期間 1953年 -
主な作品 映画
『夜の河』/『彼岸花』/『暗夜行路』
黒い十人の女』/『私は二歳』
雪之丞変化
テレビドラマ『明治の女』/『大文字はもう秋』
 
主な受章・受賞歴
1956年(昭和31年) - 映画『夜の河』
NHK 主演女優賞
1958年(昭和33年) - 映画『白鷺』、『彼岸花
第9回ブルーリボン賞 主演女優賞
1960年(昭和35年) - 映画『女経』、『濹東綺譚』
第34回キネマ旬報賞 主演女優賞
1996年(平成8年) - 第6回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー
2001年(平成13年) - 紫綬褒章
2000年・2002年(平成12・14年) 燦々ぬまづ大使(観光大使 2度受賞)

著書「いのち燃やして」(小学館。芸能生活50周年記念)
来歴
1931年(昭和6年)、大阪市西区立売堀(いたちぼり)生まれ。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。自宅が進駐軍に接収されたため引越し、大阪府立大津高女(現・大阪府泉大津高等学校)から京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)に転入し、1949年(昭和24年)卒業。
1950年(昭和25年)、読売新聞社中部日本新聞社西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。この時の審査や授賞式の模様を伝えた白黒ニュースフィルムが現存する。
1951年にミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンロージョー・ディマジオに会った。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトされるが、当初女優になる意思はなかった。しかしスカウトが途切れず、悩んだ末、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。
ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに、3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。
同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。1954年に『金色夜叉』、1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍した。
1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。
山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。
永田は一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。
彼女はテレビドラマに活路を求め、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開き、2013年現在まで演劇一筋で主演を続けている。
なお、五社協定から49年が経過した2012年の今も映画界には復帰していない。ただ、テレビ番組『映像美の巨匠 市川崑』(1999年、NHK)の中で、1983年に市川崑から映画『細雪』への出演依頼があったが断っている。結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演しなかったことを後悔したと語っている。
1962年、作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。1968年、長男を出産。現在は孫もいる。
2002年12月、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。
2011年11月21日、夫・丈晴のお別れの会が東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれ、喪主を務めた。会には芸能界や政財界などから約1000人が出席した。
★『彼岸花』(ひがんばな)は、小津安二郎監督による1958年製作・公開の日本映画である。小津の監督作品としては初のカラー映画。松竹大船撮影所製作、松竹配給。日本では同年9月7日に公開された。
■受賞
キネマ旬報ベストテン第3位
ブルーリボン賞主演女優賞(山本富士子
文部省芸術祭芸術祭賞
佐々木幸子:山本富士子大映)(当時としては異例の出演であった)
 

「はじめチョロチョロ 中パッパ ジワジワ時に火をひいて 赤子泣いても蓋とるな」

☆彡8月18日は
●『米の日』 :
1998(平成10)年に「岩手県農政部農産物流通課」が制定。
日付けは、米の文字を分解すると、「八十八」となる(米を作るためには八十八の作業が必要だからだといわれる)ことから、八月十八日が米の日として選ばれました。
関連記念日として、◎8月8日の「米の日」と、◎毎月8日・18日・28日も「米の日」になっています。
 
☆彡毎月18日は
●『米食の日』 :
三重県が1978(昭和53)年10月に制定。
「米」の字を分解すると「十」「八」になることから、若者の米離れを防ぎ、米の消費を拡大する為の記念日です。
 


 はじめチョロチョロ 中パッパ 赤子泣いても蓋とるな
美味しいご飯の炊き方正統派
「はじめチョロチョロ 中パッパ ジワジワ時に火をひいて 赤子泣いても蓋とるな」
とよく言われます。
ご飯を炊く時の手順やコツを歌った歌です。
はじめチョロチョロ(炊き始めはやや弱火で)、中パッパ(蒸気が出てきたら強火にして)、ジワジワ時に火をひいて(水分がなくなってジワジワと音を立て始めたら火を落として)、赤子泣いても蓋とるな(蒸らしている時に赤ん坊が泣いても蓋を開けず充分蒸らせ)
という意味です。